魔法の原石 *前編*

留守電

 

「用件、1件です」

点滅していた留守番電話の再生ボタンを押すと、無機質な女性の声が響いた。

外から入るとムッとする4畳半一間のアパート。

散乱とした部屋。

そこら中に脱ぎっぱなしの服。ティッシュの丸めたものやゴミ、カップラーメン、スナック菓子の食べ残しなどが、散乱している。

机の上には、電車の中で拾ったのか、ちょっと表紙の折れた、軟派週刊誌が3、4冊散乱している。中には、女性の大胆な悩殺ヌードが掲載されたページを開いたままのものもある。

窓のカーテンレールには、クリーニング屋からもらった針金でできたハンガーに、下着と汚れタオルが無造作にぶら下がっている。

見るからに男所帯とわかる、だらしない部屋だ。

磯貝勇太。35歳。独身。

この部屋に住み着いて早3年。家賃2万9千円。風呂なし、共同トイレだ。

ただ、建築現場の作業斡旋所に近い。北千住駅まで歩いて10分というところが救いだ。

携帯電話を持っていたが、その電話代を捻出するのがむずかしく、 先々月解約したところだ。

今日は、夜のバイトもたまたま休みだったので、派遣の日雇い労働の後、久しぶりに銭湯に行ってさっぱりして来たところである。

「風呂に入っている時に来た電話に違いない」

そうつぶやきながら、空っぽに近い冷蔵庫から、たった1本しか残っていない缶ビールを取り出し、飲み干しながら、留守電の再生ボタンを押したのだ。

「もしもし勇太、私、綾です。できたら電話下さい。おりいってお話があります」

それだけ伝えると、メッセージは切れた。嫌な予感がした。

山下綾。29歳。付き合って5年になる。

バイト先で知りあって、意気投合したが、何となくだらだらと過ぎ去ってしまった。

一度は、真剣に結婚を考えたこともある。

しかしフリーターを続けている勇太は、生活のことを考えると強く押せない自分がいた。男のプライドが許さないというのだろうか。

また、彼女の方も、口には出さないが、勇太の生活力のなさに不安を抱いているようだ。

もちろん、男と女。この部屋でも何度か激しく愛し合ったことがある。

ただ押さえられない欲望を満たしていただけかも知れない。

あるいは、さびしさを紛らしていたのかも知れない。

綾の体をむさぼりながら、どこかに満たされないものをいつも感じているのだ。

「こいつを幸せにしてやりたい!」と思いながら、できない空しさ。

もっとつらいのは「この人と一緒にいて本当にいいのかしら?」と、綾の正直で不安な気持ちが、彼女の体を通して伝わるのである。

ましてここ3週間、連絡も取っていない。

忙しさにかまけているのだ。昼の建築現場の仕事だけでは、お金が足りないので、夜の高層ビル掃除のアルバイトも始めたせいだ。

正直「会いたい」という気持ちが萎えていることも事実だ。だけど別れたくない・・・こんな複雑な気持ちを持てあましながら過ごしてきた。

不安な気持ちを押さえながら、おそるおそる綾の携帯番号をプッシュした。

そんな勇太の複雑な気持ちには関係なく、空には、満天の星が2人の幸せを祈っているかのように輝いていた。

 

別離

 

久しぶりの渋谷の街は、若者達でごったがえしていた。

その若者達の笑顔には屈託がない。人生をまさに謳歌しているようでもある

「そう言えば、俺も学生時代はこんな感じだったなあ」

有名私立大学の早慶大学を卒業した時は、もうすでに27歳になっていた。

浪人生活を2年。何が何でもと憧れの大学に入った。

とにかく浪人生活は、ストイックで勉強ばかりした。

その反動か、希望の大学に入ったので気が緩んだ。

「よ~し、できるだけ学生生活をエンジョイしてやるぞ!」と、授業をさぼりバイトにナンパにあけくれた。日本の大学はアメリカと違って、何とか入学できれば、後はトコロテン式に卒業できる。甘いと言えば実に甘い。

4年制大学を7年行ったことになる。それも、意図的に卒業を遅らせたと言っていい。何と言っても、学生稼業は気楽である。

まさに、ひと頃流行ったモラトリアム(執行猶予)人間、つまり縦社会である大人社会に入りたくないという精神的幼児人間だったのだ。また「自分探し」という言葉も流行った。

学生時代、バブルははじけたとはいえ、まだまだ景気はよかった。

バイトはおもしろいようにあった。時給もどんどん上がり、普通のサラリーマンの給料を軽く抜いた。

渋谷のクラブにもよく出入りした。

早慶大学の学生というブランドだけでなく、お金も若さもあったから、女の子にもよくもてた。複数の彼女と遊び感覚でつきあっていた。

学生仲間には、渋谷のキングとまで呼ばれていた。

「俺は、アリとキリギリスのキリギリスだな」

街行く若者達をながめながら、自分の過去がフラッシュバックされてくる。

道玄坂に面してオープンカフェになっている、アメリカに本社があるムーンバックスコーヒーにはすでに綾がいた。

一角のテーブルに2人は陣取った。

甘いほのかな香りがテーブルの上を漂っている。

店内からは、程良い大きさで、ヒップホップのリズムが流れている。

この渋谷の雑踏にはふさわしい。

「ここのカフェラテェすごくおいしいの」と、綾が注文したてのカフェラテをすする。

コーヒー1杯で400円近くもするこの価格は、正直今の勇太にはきつい。

「あっ、そう」勇太の返事は、つい上の空になってしまう。

「それより、話って何?」と勇太は切り出した。

「あなたっていつも、せっかちなんだから」単刀直入な聴き方に、綾の表情が曇る。

「だって、おりいって話があるって言ってたじゃない?」

常に男と女の会話の食い違いがここに起きる。情緒を大切にしたい女。論理を重んじる男。

すぐに結論を急ぎたがるのが、男の常である。

「わかった。じゃあ言うわ」

不満の色は隠せない。口をとがらせながら、綾は話し始めた。

勇太はじっと綾の言葉を待った。

もう一口、綾はカフェラテを口に含んだ。

「今日で私達、終わりにしましょ」

やはりこう来たか、心の中で予想していた通りだ。

「えっ、どうして?」一応驚いてみせた。

「だって、このままズルズル付き合っていても、仕方がないと思うから」

「じゃあ、お前これからどうするんだ?」

「今のところ決めてない。でもいったん実家に帰ろうと思うの。それにそろそろ本気で結婚もしたいと思っているし・・・」

「結婚かあ」心の中でつぶやいた。この言葉に弱いのだ。

「あ、そう。それはいいね」

意外とあっさりとした、心にもない答えが口からついて出た。

「よかった。じゃあ長い間ありがとうね」

「ああ」

ものわかりのよさを演じている自分が情けなかった。

「ごめんね。これから友達と会うので時間がないの」

それだけ言うと綾は、何事もなかったかのように席を立って行ってしまった。

心なしか、後ろ姿がさびしそうだった。

あっけない結末。

「ちょっと待てよ。俺のそばにいてくれよ!きっと幸せにするから!」

心からの叫びはそうだったが、なぜかそれが言えなかった。

言えない理由もよくわかっていた。

ただただ、綾の後姿を、見送るしかなかった。

取り残された勇太。ものすごいさびしさが、じわっと襲ってきた。

誰もいなければ、大声出して泣きたい気持ちである。

そんな勇太の心情とは関係なく、渋谷の街は、屈託のない若者達の笑い声で賑わっていた。

 

通告

 

「磯貝、ちょっと応接まで来てくれや」

応接と言っても、プレハブづくり建設現場の事務所に、とってつけたような応接セットがおいてあるだけだ。

大手ゼネコン・羽島組の下請け、大鳥建設の建築現場だ。

「えっ、何ですか?」

頭の中を一瞬、よからぬことが起きるのでは・・・とよぎった。泣きっ面に蜂。まだ綾に振られた傷が癒えてないというのに・・・。

「まあ、まあ、こんな所では何だから」

いつもは怖い現場係長の冨永が、いつになく優しい。

周りには、足場をはずす電動ドライバーの音や、パイプを積み重ねていく時の独特の金属音が聞こえる。数人の足場職人が、いそいそと作業をこなしている。

磯貝勇太の仕事は、その跡片付けである。

ちらかった木片、金属のくず、塗装用の空き缶。職人達が吸ったタバコの吸殻なども拾っている。係長に促されるまま応接に入った。

「係長、さっきの話って何ですか?」

「まあ、 まあ」と言いながら冨永は、自動販売機の方へ向かい、小銭をポケットから取り出す。

「お前、何がいい?」

話が気になり、飲み物なんかどうでもよかったが断る理由もなかった。

「では、ブラックで冷たいのを」

「まあ、座った、座った」

冨永の指しだす手は、ごつくてしわだらけだった。見るからに職人の手だ。

指しだされたブラックコーヒーよりも、冨永の手の方が印象に残った。

「あっ、すみません。いただきます・・・。あのう・・・」

「お前もわかっているけれど、今日でこの現場も終りだ」

勇太の話をさえぎって、冨永が話し始めた。

「ええ、まあ・・・」

「そこで、次の現場に行ってもらいたいところだが、何しろ改正建築基準法のせいで、なかなか次のマンションの認可が降りなくてな・・・」

「改正建築基準法?どこかで聞いたことがある。 でも俺にとってはどうでもいいことだ」 と、心の中でつぶやいた。

「悪いけど、お前の雇用契約は今日で終りだ。派遣元のキャリアアップとも合意の上だ」

「け、けいやくしゅうりょう・・・」何度、この言葉を聞いただろう。

もう慣れっこになっているはずだ。なのに、突然襲ってくる絶望感。

まして今回はダメージが大きい。まだまだ綾とのことが尾を引いている。

「それって、クビってことですか?」

「ああ、そうだ」

「冨永さん、俺が何かしたというのですか?」声を荒げて言った。

「だから言っただろう、改正建築基準法で仕事がないんだ!」

「そんなこと、俺に関係ないじゃないですか。何とかして下さいよ。係長!」

心の中は、怒りと失望で完全にパニックである。

今回は、珍しく1年以上も続いた。自分の中では、このままいつまでもこの雇用契約が続くと思っていた矢先のことである。

まさに寝耳に水とはこのことだ。

「どうにもならんものはならん!」

「・・・じゃあ、一緒に派遣されている、岡本はどうなんですか?」

一瞬、冨永の表情にとまどいが見てとれた。

「岡本?関係ないだろ!」

早くこの話題からそらせたいようであった。

「どうなんですか??岡本は?」

「しつこい奴だなあ!」

その時であった。岡本を先頭にどやどやと数人の男が入ってきた。

汗くささが部屋中に充満した。

「おい!岡本!どうなんだ?」

「どうって?」

あっけにとられたような表情で、岡本が答える。

「今なあ、俺、冨永さんからクビを言い渡されたんだ。それでお前はどうなんだ?」

「えっ、俺もクビなんですか?」

びっくりしたような表情で、岡本が冨永を見る。とっさに冨永が、岡本に目配せしている様子を勇太は読みとった。それだけ勇太は、敏感になっている。

しかし当の岡本は、とっさのことでそこまで気が回らない。

「係長、どうなんですか?」

しぶしぶとした表情で「岡本は関係ない。磯貝だけだ」

「磯貝だけだ」という言葉に、勇太の怒りは頂点に達した。

「てめえ、どうしてウソつくんだ!」立ち上がり、冨永の胸ぐらをつかんだ。

一瞬、冨永は怯んだ。しかし荒くれ男に長年囲まれて、度胸は座っている。

「ウソ????お前、何をバカなことを言ってやがんだ!」

声を荒げて、冨永も立ち上がった。

険悪な雰囲気に、男達も戸惑っている。

「だって改正建築基準法のせいで、マンションの認可が降りないって言っただろ!」

「ああ、言った。事実だから仕方ねえじゃないか!」

「だったら、岡本はどうしてクビにならないんだ!」

「そこまで聞くんだったら、本当の理由を教えてやろうか?お前の仕事ぶりよ!」

「何だって、てめえ~」

思わず勇太は、つかんでいる胸ぐらを押した。

よろよろとよろめき、冨永はソファに座り込んだ。というより、ソファが後にずれてしまうほど、押されたと言っていい。

「ふざけんじゃねー!!」

勇太が、飲みかけのブラックコーヒーを投げつけた。

とっさにかわした冨永。コーヒーの液をまき散らしながら、空き缶が飛んで行った。カラカラカラカラーン、入口近くまで転がって行った。

すかさず冨永につかみかかろうとした時、岡本が羽交い締めにした。

「てめえ、離せ!」

同時に、岡本と一緒に部屋に入って来た男達が、勇太の自由を奪った。

多勢に無勢。後ろ手に逆手をとられた勇太は、もうどうしようもなかった。

「興奮するなよ。な!磯貝」岡本がなだめる。

他の男達も口々に「磯貝、磯貝、どうしたんだよ!」となぐさめる。

「岡本だけにはなぐさめられたくない」そんな心の叫びが聞こえる。

「このゴマすり野郎」と心の中でつぶやいている。

冨永が言う。 「磯貝。どうしようもねえんだ。許せ」

その言葉を聞いた途端、涙があふれてきた。そしていろんなことが思い出される。その場で、おいおいと勇太は泣き出してしまった。

「岡本、悪いけどこれで磯貝といっぱいやってくれ!」

冨永はポケットから、くしゃくしゃの1万円札を出した。

「い、いいんですか?係長」

岡本はその1万円を、さっと押し頂くようなしぐさで受け取った。

「頼む」言い残して、冨永はその場を去った。

 

数分後、泣きじゃくる勇太と、寄りそう岡本の姿がそこにはあった。

 

新聞記事

 

新橋。足繁く帰宅を急ぐサラリーマン。そして、待ちに待った定時後のデートなのか、おしゃれをした若い女性も目立つ。

明るい照明とは、似つかぬほど夕方の牛丼屋は客が少ない。高野屋と言って全国チェーン展開しているお店である。かきいれ時は、何と言ってもお昼だろう、そう思いながら磯貝勇太はその店に入った。

時が、少しは勇太の心を癒しているようだ。

「いらっしゃいませ!」

元気はいいが、半ばマニュアル化されたアルバイト店員の声が響く。

俺もこうしてよくバイトしたな。ふっと、過去を思い出しながら、入ったすぐのカウンター席に座った。

「牛丼、大盛り」力のない声で言った。

「はい、牛丼、大盛り!」とその店員は、水の入ったコップを置きながら奥に伝える。

「今日も晩メシは480円か」つぶやきながら、先ほどコンビニでお茶を買った時の、財布の中身を思い出す。後、3000円だけだ。そして小銭が少々。

「今度の木曜日かあ~」クビになった派遣先からの最後の給料日まで、まだ3日ある。

この3000円で、何とかやりくりしなければならない。

いったいいつになったら、この貧乏状態から脱出できるんだろう。考えるだけでため息が出る。

日雇い派遣大手のキャリアアップから解雇通告を受けて早3週間。毎日、ハローワーク通いだ。

しかし、夜の都心の、高層ビルの清掃作業のバイトだけは今も続いている。

夕方の6時半から始めて、夜の10時まで。

時給は1000円。一晩で3500円にもならない。

日毎にあせりの色が濃くなる。

「なんとかしなければいけない」頭の中では、将来の不安や心配がぐるぐる回る。夢も希望もなく最悪だ。

「何とか人生を挽回したいものだ」そうつぶやきながら願った。

今となっては、食べることが唯一の楽しみだ。食費を浮かせるために、牛丼の高野屋をよく使う。せめてもぜいたくは大盛を頼むこと。

「なんだか疲れが取れないな」首をぐるぐる回してみた。左の肩がコチコチに凝っているようだ。部屋にはふとんはなく、3枚の毛布にくるまって寝ている。

そろそろ寒くなってくるから、どこかで布団を調達しなければならない。

ここしばらく銭湯にも行ってないな。なにしろ1回、430円の銭湯は高い。

「お待たせ。牛丼大盛りいっちょう!」

店員の威勢のいい声が聞こえる。その声の明るさが余計、自分のみじめさをあぶり出す。

その時、誰かが読み終えたものなのか、カウンターに置き去りにされていた、くしゃくしゃになった朝日新聞の一面が、まるで吸い込まれるように目に入ってきた。

夕方まで朝刊が残っているのが珍しい。

「ワーキングプア、ついに1000万人突破」

「39歳、全財産100円。細切れ雇用、食いつなぐ生活」

食い入るように読み始める。その間、機械的に箸を動かし、牛丼をかっ込んでいる。

唯一の楽しみであった牛丼を、味わって食べているふうでもない。頭の中は、その新聞記事でいっぱいである。

その記事によると、

「その男性は99年、都内の有名私立大学を卒業した。学生時代をエンジョイしていたのか、浪人と留年を重ね、この時30歳。ちょうど就職氷河期まっただ中の時である。

しかたなく派遣労働者として登録し、 就職活動をし続けたが決まらない。派遣会社は10

社以上登録し、契約が終わると食いつなぐため、いろんなバイトもした。学生時代からバイトで人生をエンジョイしていたのが、今では悔やまれる。たまに契約社員として決まるが、一度も正規社員として採用されたことがない。

そのうち、面接で『どうしてそんなに職を転々とするんですか?』と聞かれるようになってしまった。ますます正社員としてのハードルが高くなっていくのだ。

年収も200万円以下、健康保険や、厚生年金など天引きされると3万8000円の家賃すら払えない」

読んでいると、その男性にだんだん感情移入してきた。

「これ、俺のこと?」と思わざるを得ないほど、実に境遇がよく似ている。

ふっー、思わずため息がでる。 「運の悪い奴だな」自分のことは棚において、こうつぶやく勇太。さっきから、箸が止まっている。

最近、独り言が増えてきたようだ。

そして口癖は決まって、「ついてないな!」「なにか、いいことないかな?」「生まれてきた時代が悪かった」・・・つぶやけばつぶやくほど、みじめになる自分がいた。

ワーキングプア特集の記事は、社会面に続くと書いていたので、社会面を開いた。

その時であった。新聞の片隅にこんな一文が飛び込んで来た。

 

「考え方を変えるとワーキングプアを簡単に抜け出せる」

ワーキングプアの若者を支援する会 主宰 一ノ瀬常彦

遠慮なく相談を! 電話03-3330-33××

 

まるでその文章だけが、光を放っているかのように見えた。

その部分を引きちぎり、ポケットにねじ込んだ。

「何かいいことが起きるかも知れない」

ふっとそう思った時、心の中にほんのかすかではあるが希望の灯がともった。

今まで、機械的に箸を動かし、口に運んでいた牛丼の味が、とてもおいしく感じられた。

 

一条の光

 

次の朝、10時。自宅アパートから、昨夜新聞で見つけた電話番号に、おそるおそる電話してみた。

プルルルル、プルルルル、プルルルル、プルルルル、プルルルル・・・。

・・・つながらない。

「やっぱりダメか」

「幸運の女神もとうとう俺を見放したか」

くだらない考えが、次から次へと頭をよぎる。

「それにしてもやけに3の多い電話番号だ」

縁起のいい番号が並んでいると思っていたのが、急にうらめしい。

「そうだよな。誰が、俺みたいなワーキングプアの、どうしようもない連中を面倒みてくれるっていうんだ」

新聞記事をくしゃくしゃと丸め、部屋の隅のゴミ籠へポイッと投げた。

1メートル以上は離れていたであろうか。

ストライクだった。

「職探しに行くか」気を取り直して、ハローワークに行くことにした。

帰宅したのは3時過ぎだった。今日も収穫がなかった。

「早く次の職を見つけなければ」この言葉を、何回繰り返しただろう。

このまま老いて行くと思うと先行き不安だ。

父親の磯貝勇吉は、中学の先生をしていたが、5年前に定年。今は年金暮らしだ。

母親の明子はずっと専業主婦。近所のスーパーでレジ打ちをしていると言う。

2歳違いの弟・英二は、大手電機メーカーに勤め、結婚もし、子供2人の親である。横浜のマンションに住んでいる。

その2歳下の妹・明美も去年結婚し、1歳の赤ちゃんがいる。福島の実家の近くに住んでいる。

そんな家庭環境の中だから、いっそう実家の敷居が高くなっている。

今では、父親とも険悪な仲である。実家に帰るといつも口げんかだ。

母親は母親で、とても心配しているようだ。

そのことがよくわかるので、会うのがとてもつらい。

「もう一度かけてみよう」

なぜか、朝捨てたメモのことが気になる。

「やっぱり何かの縁かも知れない」

ゴミの山の中で生活しているから、一度捨てたメモなどは、それを探し出すことは、とても困難な仕事である。

しかし、このメモだけは、ゴミ籠に一発で収まった記憶が鮮明に残っている。

くしゃくしゃになったメモ。じっとながめる。

「やっぱり怪しいな。ひょっとしてだまされるかも」

「いやいや、そんなことない。いいチャンスだ。トライしろ!」

二つの相反する声が頭の中を駆けめぐる。

「ええい!こうなったら10円玉に決めてもらおう!」

随分、安易な考えだと我ながら思った。しかし悩まない分合理的でもある。

「表が出たらかける。裏がでたらかけない」

部屋の隅においてある食卓とも作業台ともつかない、 たった一つの机の上で10円玉を転がした。コロコロコロコロ・・・、勢いよく回った。

表だった。迷いはなかった。

プルルルル、プルルルル・・・

「はい、こちらワーキングプアの若者を支援する会」

たった2回のコールで反応した。女性の声を期待していたが、どこかすごみのある男の声だった。しかしどことなく、安心感があった。

勇太は、簡単に電話をかけるに至ったいきさつを話した。

「じゃあ、一度、こちらへいらっしゃい」

なぜか、素直にその男の言うことに従ってみようと思った。

「ひょっとして道が開けるかも」そんな期待と、「だまされたらどうしよう」という不安感が混じった。何ともいいようもない感覚であった。

 

課題

 

その事務所は、新宿にあった。西口の高層ビルの39階だそうだ。

翌日の3時にアポを取った。

エレベーターで、一気に39階に着くと、そこには受付があった。

「(株)クリンネスクイーン」

大きな社名の入った豪華なボードが目に飛び込んで来た。

そのボードの下に「ワーキングプアの若者を支援する会」と、小さく書かれた紙が貼られていた。少々不釣り合いな気もしないではないが・・・。

「いらっしゃいませ!」若くてかわいい女性が2人、笑顔で迎えてくれた。今の勇太には、あまりに眩(まぶ)しい。

よかった。スーツを着てきて。学生時代につくった、今手元に残っているたった一着の一張羅(いっちょうら)。クリーニングから戻ってきたままの状態であったので、アイロンもかかっている。派遣会社の面接を繰り返してきたが、その時もいつもこのスーツだ。

久しぶりに、髪も整えてきた。朝、出かけに鏡を入念に覗いたが、無精ひげを剃ると、まだまだまんざらでもない。

ただ、どうしてもここのところのショッキングな出来事続きで、精気がない。

「あの~、この新聞記事を見て来たんですけど」

「わかりました。アポは取っておられますか?」

「あ・・・、はい」

「お名前をお願いします」

「磯貝勇太です」

自分でもわかるが、どことなく自信のない声だ。

「少々お待ち下さい」

一人が応対し、もう一人の女性が内線電話をする。連係プレーがバッチリだ。

ワーキングプアの相談に来たので、こんな若い女性達に何だか恥をさらすようで、いても立ってもいられない。早くこの場から逃れたい気持ちでいっぱいだった。

「どうぞこちらへ」

どのくらい時間がたったであろうかと感じるほど、長い時間の経過を感じていた。でもそれは、ほんの数分であった。

髪の長い、そして目元がとてもチャーミングな女性が案内してくれた。

右手にオフィスを見ながら、長い廊下を彼女の後をついて行く。

目は、終始伏し目がちにになりながらも、あたりをそっと見回してみた。

多くの若い男女がハツラツと働いている。とにかく活気がある職場だ。

ズラッと並んだ机には、適度のプライベートが守られるよう、パーティションで仕切られている。高さは立った人の腰のあたりで、立ち上がると全体が見える。

よくできたレイアウトだ。各デスクには、一台ずつパソコンが配置されている。まるで、アメリカ映画に出てくるオフィス風景だ。

奥まったところに、その事務所があった。

入口には、茶色がかった透明のアクリル製のお洒落なネームプレートに、 “プレジデント”と書かれている。

「社長室じゃないか」勇太はつぶやいた。

受付嬢が、トントンとノックする。

「磯貝様です」

「おう。入ってもらって」

ドアを開けると立派な机のそばに、50歳代半ばだろうか、精悍な男が立っていた。

身につけている服も一目で高級品とわかる。

シックな色で統一された部屋の調度品ももちろん、一流品であることが見て取れた。

そして何より、その社長室から見える景色は、絶景だ。東京全体を一望できそうな景色である。冬の晴れた日には、富士山だって見渡すことができるだろう。

「磯貝君だね。一ノ瀬常彦です。つやのある押しの利いた声」

「は、はい!」先手を越された。

「まあ、かけたまえ」

「あ、ありがとうございます」

立派なオフィスに圧倒され、どうしても緊張してしまう。

 

対話

 

どのくらい話し込んだであろうか。

時計に目をやるともう1時間は過ぎていた。

一ノ瀬は、適度に相づちをし、勇太の話の腰を折らずじっと聞いていた。質問も、実に的を射ている。

話している内に「だんだん、いい人だな。この人なら、俺の窮状を救ってくれるかも知れない」という気になっていた。

「そうか~、そいつは大変だったな」

まさに、共感してくれたという感じだ。その言葉に思わず心が揺すぶられた。ぐっと熱いものが込み上げてくる。

「親父とこんな会話をしたかった」そう思った。本当に思った。

まるで、慈愛あふれる父がそこにいるようだった。

「今年35か、俺の長男と大して違わないな」一ノ瀬がつぶやく。

「そうなんですか?」

「まるで息子みたいだ。今から勇太と呼ばせてもらう。いいかい」

「あ、はい。嬉しいです」

「なんて暖かい人なんだろう」もうすっかり勇太は、心を許すつもりになっていた。

「実は、俺も若い頃に貧乏のどん底体験をしてねえ。今ではこうして会社をいくつも経営しているが、あの時は最悪だった。どうしようもなくて、本当に世の中を恨んだものだよ」

「えっ、本当ですか?」

目の前の一ノ瀬からは、全く想像できなかった。

「長年付き合っていた女にも見捨てられ、心まで病んでしまって、ノイローゼって診断されてさあ~、今でいうウツ、そうウツだね」

立ち上がって、後を振り向き、大きな窓ガラス越しに見えるパノラマを見ながら、過去を回想するように一ノ瀬は語った。

「はあ~」返事をしながら、ウツではない自分の方が、まだましだと思った。

「まさに八方ふさがりだったんだ。勇太の方を向き直って言った。

人生諦めることはないんだと、一ノ瀬の過去を聞いて何か希望が心の底から湧いてきた。

「でも、今となっては、あの時の最悪の状態が、俺の最高の財産になっている。あのどん底のおかげで、とても大切なことに気づかされたからね」

「大切なこと」・・・この言葉が勇太の心に響いた。そして、その「大切なこと」を早く知りたいと思った。

「で、先生。どうすればこの貧乏状態を脱することができるんですか?」

いつものせっかちなクセが、頭をもたげて来た。

「貧乏状態?勇太は本当にそう思っているのかね?」

「えっ、どういうことですか?現にこうして食うにも困っています」

「そうかね。それはお気の毒様。でも貧乏状態っていう意識を、今日から捨てるんだね」

「えっ、どうすればいいんですか?」

「俺にもわからんよ。なにしろ勇太自身の問題だからね」

薄笑いを浮かべながらそういう一ノ瀬の言葉に、急に突き放された気持ちになった。

まるで禅問答である。

「一ノ瀬先生。とにかくもう待ったなしなんです。どうすればいいか、具体的に教えて下さい」

「本当に教えてもらいたいと思っているのかね」

勇太の目をじっと見据えながら、念を押すように一ノ瀬が聞いた」

「もちろんじゃないですか。この泥沼状態から脱することができるなら、どんなことでもやります!」

「ほう、どんなことでもやる!・・・それは結構!」

大きくうなづく一ノ瀬。

「ではさっそくこの洗剤を、一ヶ月の間に3ダース売って来なさい!」

緑のプラスチックボトルに入った、やけに黄色いどぎついシールが貼られた、液状の物を手にした。

「えっ」一瞬耳を疑った。

「この商品は、1本3000円するが、うちのヒット商品だ。 “オールマイティ”という名前の洗剤で、多くのお客さんに喜んで使ってもらっている。

「ど、どうして洗剤の販売なんですか?・・・そんなことをするためにここに来たのでは、ありません!」

さっきまでの信頼感が、一瞬にして吹き飛んだ。

人の弱みにつけ込んで、とんでもない野郎だとも思った。

「さっき、何でもすると言わなかったかね?」

「うっ」

言った手前、男のメンツが頭をもたげた。

「どうなんだね。やるのか、やらないのか?」

その言葉に、すごみを感じた。

「うっ、わ、わかりました。やってみます」としぶしぶ答えた。

「じゃあ、この1本はサンプルとしてあげよう。商品は明日にでも自宅に届けさせる。代金は売れてからでいい」

言い終えると、電話で秘書の女性を呼び、万端を指示した。

勇太は、嫌~な気持ちを抱えて事務所を後にした。

高層ビルの谷間に、夕日が沈もうとしていた。

 

 

続く・・・