魔法の原石 *後編*

報告

 

翌朝、足取りも軽く、一ノ瀬のオフィスに向かった。

「おめでとう。やっと売れたようだな」

顔を見るなり、一ノ瀬は、微笑んでこう言った。

「ど、どうしてわかるんですか?」

「体中から喜びがあふれているぞ」

「ありがとうございます。完売しただけでなく、在庫が足りません」

「そうか、そうか。それは、大したもんだ」

「これも先生のおかげです」

本当にそう思った。素直に思った。

「どうだ。商いっておもしろいだろう?」

「商い!?ええ、まあ、そうですね。ほんとに!」

商いか、そうだよな。これが商いなんだよな・・・自分たちのような仲間の間では、ちょっと使い慣れない言葉に、新鮮味を感じた。

「人と人の心がつながった時、物は売れる。これが商いの真髄だ」

一ノ瀬が言った。全てを見透かしている。こわい人だ。

でも、ほんとにそうだと思った。

「これが、3ダース分のお金です」

「うん。ごくろうさん」

電卓をはじきながら、一ノ瀬が言った。

「はい!手数料はこれ、売上げの30%だ。取っといてくれ。そしてこの受領書にサイン頼む」

と、32400円、手渡された。

「えっ、いいんですか?」

洗剤の販売は、一ノ瀬から学ぶための、レッスンの一部だと思っていたので、収入は期待してなかった。

思いもかけない臨時収入に勇太は喜んだ。

「当たり前だ。立派な販売コミッションだ」

「時給や給料という名のお金は何度ももらったが、販売コミッションというお金は、初めてだ。とても新鮮な感じがする」と思いながら、押し頂いた。

「ありがとうございます」

「ところで、今回のことで勇太は何を学んだ?」

「はい。実にいろいろあります」

「例えば?」

「まずやればできるということです。ただしその時に、自分本位の考え方では、物事はうまくいかないということをです」

「そうか。そうか」

一ノ瀬は、とても満足そうにうなずいた」

「いかに今まで、自分のことばっかり考えていたかということを思い知らされました。掃除を無心になってやっている時に、そのことに思い至りました」

「だろうな」

「不思議ですね。洗剤を売ろう、売ろうとした時には、全然売れなくて、無心になって自分も気持ちよくなって、人も喜んでくれるだろうということを・・・それが掃除だったんですけど・・・それをやり始めたら、急に洗剤も売れ始めて・・・」

「どうだ。この社訓すごいだろう」

一ノ瀬は、座っている後の額を、親指で指差しながら得意そうに言った。

「はい」

「いい体験したなあ。これが勇太の、これからの人生の大きな財産になるんだから」と立ち上がり、窓から遠くをながめながら一ノ瀬は言った。

「で、他に?」こちらをくるりと振り返ってたずねた。

「自主的に、何か仕事をやり始める楽しさを学びました」

「具体的に言うと?」

「今まで、俺・・・」

「ちょっと待て!その俺っていうのは学生言葉だぞ。目上の人に対して、随分失礼な言葉づかいなんだぞ。そういう時は、私って言うんだ!」

「あっすみません。私、今までパートやアルバイト、あるいは派遣社員として雇われてばかりいましたから、まあ言われたことだけやってきたような気がするのです。しかもマニュアルに従って、仕事というより作業をやっていたというか・・・」

勇太はあわてて、しかし素直に言葉遣いを正した。

「ほう」

「ところが今回、確かに『洗剤を売ってこい』と先生から言われましたが、実際、販売するとなると、マニュアルはないし、自分で自分の心を奮い立たせなければならないし、いろいろ工夫して行動しなければ、前に一歩も進めないことがわかったのです」

「そうだろうな。それが事業家というものだ」

「事業家・・・ですか」なにか急に偉くなったような気がする。

「実は、多くの者達が、この『雇われるという考え方』から抜け出せなくて、ワーキングプアから抜け出せないんだ」

「どういうことですか?」

「つまり収入は、どこかに雇われて初めて手にすることができると思い込んでいるんだ。だから職を失うことを恐れる。また実際、職を失ったらまた次の就職口を探す、これを繰り返すんだ」

「う~ん、痛いところを突かれましたね。でも私の周りもみんなそうですから」

「仕方ないさ。小さい頃から、親も先生も社会全体が『とにかく勉強をして、競争に打ち勝って、いい学校に入って、いい会社や役所に入ることが幸せになれる最高の方法なんだ』みたいなことを、繰り返し、繰り返し、子供の脳にインプットしているんだから」

「そうですよね」

「さらに学校でも、卒業生には、就職を勧める。だから社会に出たらどこかに勤めなければならないと思い込んでしまうんだ」

「でも、それも悪くはないじゃないですか?」

「悪いとは言っとらん。ただ『どこかに就職しなければ、収入を稼ぐことができないんじゃないか』と錯覚してしまうことが問題なんだ。つまり自分で自分のメシを稼ぐというたくましさやハングリー精神を、どこかに捨ててしまうんだ。つまり飼育された犬や猫みたいなもんよ」

「飼育された犬や猫ですか。随分厳しいですね」

「今回、洗剤を売り切ってどう思った?」

「あっ、これならいくらでも、創意と工夫、う~ん、というより誠意と真心で、売上げを上げることができるかもって思いました」

「だろう、そこよ。それを自立って言うんだ。その気概を持っておれば、会社勤めしていても、クビになることなんかないんだよ。そんな社員なら、高給払ってでも会社は雇うさ。わかるか!」

「はい!」勇太は力強くうなずいた。

「よかったな、勇太。これで貧乏状態から脱することができそうだな」

思い出した。最初の面談で一ノ瀬から訪ねられた質問を。それは、貧乏状態?勇太は本当

にそう思っているのかね?」だった。

今、はっきりとわかった。自分自身で貧乏状態をつくり出していたことを。

「はい!」確信のこもった返事であった。

「仕事は、誰かから分けてもらうんではなく、自ら生み出すことだな」

一ノ瀬が、強い口調で断定した。さらに続けて言った。

「世の中には、まだまだいっぱいニーズがある。人間は生きている限り、いろんな商品やサービスを永遠に求め続ける。つまり、仕事は無限に生み出せるということだ!」

「ということは、無限に収入も生み出せるということ・・・ですか?」

「そうだ。自分の思い描いている通りの金額でな」

「何と、自分の思い描いている通りの金額!」

そう想像しただけでも、心がわくわくした。

「ところで先生、この洗剤を販売する仕事、このまま続けていいですか?」

「もちろん。望むところだ」

「えっ、そうですか?ありがたいです」

「ただし3ヶ月は今までと同じ条件だ。つまり試用期間だな。それが過ぎたら正式な代理店として契約してもいいぞ。そうしたら、もっと条件はよくなる。

「代理店」・・・思ってもみない言葉であった。

その響きがとても勇太にとっては、真新しかった。そこには、自立の響きがあった。

「それは嬉しいです。一生懸命やってみます!」

今回の感動の成功体験が、大きなモチベーションとなっているようだ。

「うちにはいろんな商材があるから、そのうち自分の会社をつくってやってみろ。いい条件で卸してやるからよ」

「えっ、自分の会社って、それって社長になれるってことですか?」

「そうよ。人間は、自分が描いているものになれる素晴らしい存在だからな」

「今までそんなこと想像もしませんでした」

「というより、想像できなかった環境にいただけだ。ただそれだけだ。だから勇太の人生はこれからだ。楽しみだな!」

一ノ瀬は勇太の肩をポンとたたいた。そして握手を求めた。

「ありがとうございます」

力強い一ノ瀬の握手を、しっかりと勇太は受け止めた。

一ノ瀬のオフィスを出て、新宿に向かう勇太。

「社長か~、悪くないな」

暖かい気持ちにあふれ、胸には希望の灯火が赤々とともっている。

 

軌道に乗る

 

それから3ヶ月ほど経ったある昼下がりのこと、一ノ瀬の事務所で、勇太は一ノ瀬と談笑していた。

先月は、何と洗剤を30ダース以上も販売していた。最初の3週間の何と10倍、当然販売コミッションも30万円を軽く超えていた。来月は、その数字を軽く上回りそうな勢いだ。

もちろん、晴れて正式な代理店としてスタート。ワーキングプアで、もがいていた時のことがウソみたいだ。

勇太は、自転車に洗剤をいっぱい積み込んで、毎日、各家庭を訪問した。エコの時代、これもかっこいいかも知れない。

そのおかげで、知らず知らずのうちに運動しているせいか体調もいい。

そうはいっても、近い将来車も買う予定だ。

もう一ノ瀬の事務所に行っても、何ら臆することがない。受付の女性達とも親しく会話ができるようになっている。

今までの自分とは確かに違う。自信を持っている自分がそこにはいた。

「先生、最初に洗剤を送ってくれた時に同封して下さった『魔法の原石が輝く5ヶ条』って、効果抜群ですね」

「俺、そんなことしたかな?」と一ノ瀬は笑って言った。

とぼけているのか、あるいは本当に忘れているのか。

「毎日、毎日、あの通りできるよう。強く意識し、心がけています」

「そうか、そうか。それはよかった」

一ノ瀬もとても嬉しそうだ。

「あの5ヶ条、ごくごくあたりまえのことを言っているだけなんですけどね」

「そうなんだ。ところが人間、その当たり前のことがなかなかできないんだ」

「ところで先生、最初、洗剤を渡されて、なかなか売れなくて途方に暮れていた時、ある素晴らしい人との出会いで一気に道が開けました。私の住んでいるアパートの大家さんです。年は67、8歳くらいで市川絹代さんといいます」

「ほう」

「その人と出会い、隣近所の人を紹介してくださったおかげで商品があっと言う間に売れました。その時のご縁で、今では息子のようにかわいがってもらっています」

「それはよかったな。何と言っても人生、出会いがとても大切だからな」

「その大家さん、若い頃ご主人に先立たれて、女手一つで子供さん3人を立派に育て上げ、自分で事業も立ち上げ、大成功された人です。で、その人がまさにこの『魔法の原石が輝く5ヶ条』を地でいっているような人なんです。

「そうか」と微笑む一ノ瀬。

「ある時、その大家さんに『魔法の原石が輝く5ヶ条』っていうのがあるんですが、ご存じですか?って聞いたら、随分驚いて『知ってる、知ってる。私も人生に行き詰まっていた時、ある人からプレゼントしてもらったの。そしてそれを座右の銘として自分のものとしていったら、全てがうまく行くようになってね』とおっしゃるんです」

「そうか、それは奇遇だな。もしかしたらそれをプレゼントしたのは、おっさんかも知れないなあ」とつぶやくように一ノ瀬は言った。

「おっさんって誰ですか?」

「前にも言ったことがあるだろう。俺も勇太の年ぐらいの時は、どん底だったと」

「はい」

「その時に、いろいろ俺を面倒みてくれた人なんだ」

昔を回想するように、一ノ瀬が語り始めた。

「メシが食えなくなってさ。ホームレスになって公園で、段ボールを敷いて一日中ゴロゴロしていた時なんだ」

「へ~、ホームレス、先生にそんな時代があったんですね」

「そんな時に、汚いかっこうして公園を毎日掃除しているおっさんに出会ったんだ」

「そうなんですか」

「そのおっさんと毎日会っているうちに親しくなってさ、親切にしてくれるんだ。弁当を差し入れてくれたり、話もじっくり聞いてくれて、涙ぐんでまでくれるんだ。最初はけったいなおっさんだと思ったけどな」

「でも、親切な人ですね」

「後でわかったんだけど、そのおっさん、その時すでに大きな会社を経営していたんだ」

「へ~、そうなんですか。人は身なりでは判断できないものですね」

「そのおっさんから教わったのが、あの『魔法の原石が輝く5ヶ条』なんだ。そのおっさんこそ、俺の人生の師匠さ!でも、3年前に亡くなってしまったけどな・・・」

一ノ瀬は、遠くの空をじっと眺めながら、おっさんのことを偲んで(しのんで)いるようだ

った。

「そうだったんですか!」

「その『魔法の原石が輝く5ヶ条』こそが、俺の原石をダイヤモンドに輝かせてくれたんだ」

振り向きざま、勇太の目を正視しながら言った。

「むっ、原石をダイヤモンドに輝かす?どういう意味なんだろう?」

勇太は、ちょっと心に引っかかったが、聞くタイミングを逸した。

しかし、あまりの偶然の連続に感動してか、次の言葉が口をついて出てきた。

「もし、そのおっさんが、大家さんにその『魔法の原石が輝く5ヶ条』をプレゼントしていたとしたら、本当に不思議なご縁ですね。まさに偶然の出会いですね」

「偶然の出会い、そうとも言えないぞ・・・」

そう言いながら一ノ瀬は笑った。

「えっ、偶然ではなくて何なんですか?」

「勇太は、俺の会社に飾ってある『そうじはこころのそうじである。こころをきれいにすれば道は開ける』を思い出して、自ら掃除を始めたんだったな」

「はい」

「そして、積極的に掃除をしているところへ、その大家さんが現れた」

「そうです」

「それを偶然とは言わないぞ。それは自ら引き寄せただけなんだ」

「自分が引き寄せた・・・」

「そうだ。勇太が積極的に行動した結果、招いたことなんだ。わかるか。つまり、積極的なそうじという行動をとっていなければ、大家さんとも会っていなかったんだ」

勇太は、一ノ瀬の言葉を聞きながら市川絹代との出会いを改めて感謝していた。

そして、あの時、自ら掃除をし始めたことを本当にラッキーだとも思っていた。

「自ら喜んで行動すれば、必ずいい結果を引き寄せる。勇太はまさにそれを実行しただけだ。だから、自ら招いたことなんだよ」

「なるほど・・・。自ら招いたことか・・・」

勇太は、以前の消極的でやる気のない自分を思い出していた。

あの頃は無気力で、どうせ何をやっても駄目だと決めつけていた自分がいた。

そして、一ノ瀬の言葉を聞き、だから何事もうまくいかなかったのだと得心し始めていたのだった。

「先生・・・では、以前のうまくいかなかったことも自分で引き寄せただけなんですね」

「そうだ。勇太もすでに気づいているはずだ。あの頃と今では、考え方も感じ方も違っていることを、以前はうまくいなかい原因を周囲のせいにしたり、自分は何をやってもうまくいかないと決めつけていただろう」

「はい・・・」

「だが、このままではいけないと積極的な行動に出た」

「掃除・・・ですか」

「掃除もだが、最初に俺のオフィスに電話をしてきたこともそうだ。それに会社にも訪問してきた。それらすべてが積極的な行動なんだ。そうだろう」

一ノ瀬の言葉に、あの時はただ、あの状態から抜け出したいという一心だったことを思い出した。

「そうでした。わらをもつかむような気持ちで先生へ連絡したんです」

「そうだろ、その積極的な行動がきっかけで、新たなチャンスを引き寄せることができたんだ」

「そうかもしれない・・・」

「俺との縁だって、大家さんとの縁だって、勇太が自ら行動して引き寄せたものだ。勇太が、何もせずにじっとしていたら、一生、俺にも大家さんにも会っていなかっただろうな」

一ノ瀬に出会い、市川絹代に出会ったおかげで、今の自分がいる。そのことをすでに心から実感している勇太には、一ノ瀬の言葉が熱く心に響いた。

「そして、勇太は、さらにあの『魔法の原石が輝く5ヶ条』に気づき、自ら実行し始めた。あの5ヶ条を実行していると、周りの人との人間関係がどんどん良くなってきただろ」

「はい。そうです」

「人間はさあ、いくら勉強しても、知識があっても、人より抜きんでている才能があっても、うまく行かないことがある。それは、周りの人といい人間関係を築いていないからだ、人っていうのは大切だぞ。人の協力があってこその成功だからな」

「はい。私もそう思います!今回のことでも、本当にいろいろな人とのご縁でここまで来れたと思っています」

「いい人との出会いを引き寄せるためには、人間的魅力がないとな。そのためには、与えることのできる人になること。簡単にいえば心の余裕のある人になることだな」

「心の余裕のある人・・・」

「そうだ。心に余裕がないと自分のことで精一杯だ。勇太もそうだったろう?」

痛いところを突かれたが、まさにその通りだった。

「心に余裕があれば、人のことを思いやれる。今の勇太を見てると、心に余裕がどんどんできてきてる。まさに自信の現れだ。随分成長したものよな~、出会った頃の勇太とは大違いだ」

ちょっと照れくさかったが、その言葉がとても嬉しかった。

「仕事っていうのは、ただ単に金儲けのためにあるんではない。仕事を通じて、自己成長するためにあるんだ」

勇太はうなずいた。一ノ瀬のいうことが、まるでスポンジが水を吸うようにどんどん吸収されていくようである。

「よく聞け、人は、その口癖の通りの人になる。口癖の通りの人生を送ってしまうのだ」

一ノ瀬は、強い口調で言った。

その言葉に、勇太ははっとした。

そう言えば、以前の口癖は、

「ついてないな!」

「なにか、いいことないかな?」

「生まれてきた時代が悪かった」

であった。

確かに口癖の通りになっていたと、今さらながら言葉の大切さを痛感した。

「とっておきのことを教えよう。勇太の夢や目標を紙に書き出し、いつもながめて口に唱えてみな。『魔法の原石』がますます輝きだし、その奇跡的なパワーで勇太の願望実現を強力に後押しをしてくれるぞ。つまり願望の自動達成装置が働き始めるんだ」

「願望の自動達成装置が働き始める!それはいいですね。さっそくやってみます!」

「人生は、その人にとって、必要なことが必要なタイミングで起きる。そのことに気づいた時、人生に無駄なものは一切ない!」

もう勇太の心は、感動で張り裂けそうである。

「そうだ。無駄なものは一切なかったんだ」

そう悟った瞬間だった。

「勇太、これからますますいいことが起きるぞ。不思議なことが起きるぞ。それをシンクロニシティ、つまり不思議な偶然の一致と言うんだ」

「シンクロニシティ・・・ですか?」

「そうだ。シンクロニシティだ。共時性とも言う。つまり勇太が想えば、それに必要な人やもの、お金や情報などが、面白いように、ベストのタイミングで引き寄せられる。まるで強力な磁石のようにな」

「磁石?」

「実は、勇太の今までのどん底人生も、勇太が引き寄せていたんだ」

「そうですね。そう思います。本当にそう思います」

「だから今日から、明るく、楽しく、愉快なことのみを想像し、言葉にし、そしてふるまうことだ」

「明るく、楽しく、愉快なことのみを想像し、言葉にし、ふるまう・・・」

「そうだ。毎日の一瞬一瞬の『思い』と『言葉』と『行ない』が、人生を造るんだ。いいか!」

「はい!わかりました」

心の中に、幸せの灯りがこうこうと輝いている勇太だった。

「先生、先生に出会えて本当によかったです」

「いや、そうじゃなくて、勇太が私を引き寄せたんだよ」と一ノ瀬は満面の笑みで言った。

 

つながり

 

日毎に自信が湧いてきて、朝目覚めるのが楽しみだ。

なぜかわからないけど、心がとても軽い。そんな気持ちで、電車に乗り込んだ。

今日はまた一ノ瀬を訪ねる日だ。

ラッシュの終わった後の山の手線は空いていた。

赤ちゃんを抱えた若夫婦が前の席に座っている。

30代だろうか?

自分と同じ年代の夫婦なんだろうな。と思った。普通の日だから、旦那は育児休暇を取っているんだとも思った。

今まで、他人のことに対する興味が全くなかった自分が不思議でならない。

あるいは、そういう微笑ましいシーンを見ると、妬みともやっかみともつかない、嫌な感情が湧いていたのが、以前のうまくいってない頃の勇太だった。

今は、そう言った気持ちが一切湧かない。不思議だ。

「俺にも少し心の余裕ができてきたかな・・・」

車窓から差し込む日差しも、とても心地いい。いつしかうとうとしている勇太だった。

そのまどろみの中で、どこからともなく、声が聞こえてくる。しかも赤ちゃん声で・・・。

「嬉しいな。僕、みんなに守られ、愛され、祝福されて!もうすぐ生まれるんだ」

その時である。一瞬、パアッと明るくなり、何か衝撃的なエネルギーが、自分の中に入って来た。

あまりのまぶしさに目が開けられない。

「この風景、どこかで見たことがある。そうだ。ここは母親の胎内だ!」

ここ何度か見ている夢の中だ。

母親の心臓の鼓動は、まるで大いなる存在が、「大丈夫だよ、大丈夫だよ、どんな時も大丈夫だよ。とやさしくエールを送ってくれているようだ」

大安心できる場所。

母親の優しい温もりとつながって、安らぎを感じている。

へその緒を通しての一体感あふれる何とも言えない至福感。

「なんて幸せなんだろう!」

体中の細胞一つひとつまで、幸福感に満たされていた記憶が、ありありと蘇ってきたのである。

「そうなんだ!そうなんだ!」

「この世界は、全てのものとつながり、愛に満ち満ちあふれているんだ!」

そのことを、リアリティをもって実感したのである。

そして、はっきりした声が聞こえた。

「人生は、愛を形にすることである」

「人生は、愛を形にすることである」

「人生は、愛を形にすることである」

・・・

「新宿、新宿」

アナウンスの声で目が覚めた。

「あっ、いけねえ、乗り過ごすところだった」

頭を2、3回ブルッ、ブルッと回し、ほっぺたをたたいた。

ぼうっとする頭で改札を出た。そして西口の地上へ出た。新宿の町並みが見えてきた。

しかし、今まで見る景色とまるで違っているのである。

見るもの、見るもの鮮やかで、そして全てがキラキラと輝いて見える。

そう、子供の頃見える景色が全て美しく輝いていた。その感覚と同じである。

「人生は、愛を形にすることである」

その言葉が、はっきりと頭の中に残っている。

何の花だろう。駅前に咲いている真っ赤な花が、目にまばゆい。

ほのかな花の香りをのせたそよ風すら、まるで勇太を応援してくれているようだ。

 

魔法の原石

 

オフィスを訪ねると、一ノ瀬が上機嫌で勇太のことを待っていた。

「よう、お早う」

「お早うございます。先生、ちょっと信じてもらえるかどうかわかりませんが、今、不思議な体験をしたんです」

一ノ瀬に今見たばかりの夢の話をした。

「そうか、勇太の心の中にある魔法の原石がピカピカ輝きだしたようだな?」

「魔法の原石?」

「そうだ」

「いつか『魔法の原石が輝く5ヶ条』の、魔法の原石について聞こうと思っていたところです。魔法の原石っていったい何なのですか?」

「全ての人の心の奥には、魔法の原石があるんだ!」

「そうなんですか?」

「そうだ。ただ、その原石の存在すら知らず、ただの石ころのようにしてしまう者もいれば、それに気づいてダイヤモンドのように光り輝く石に磨いていく者もいる」

「石ころ?ダイヤモンド?・・・」

「どうして、そのようなその結果になるか、その違いがわかるか?まあ、勇太はすでに知らず知らずのうちに、実感してるはずだがな」

「えっ、私がですか・・・」

「そうだ。魔法の原石が輝くダイヤモンドにできるか、ただの石ころのままでいるのか、それはな、想い方、感じ方の違いで決まるんだよ」

「・・・」

「自信をなくし孤独感にさいなまれ、不満と不安を抱えながら、人生を送ってしまえば、魔法の原石はただの石ころのままだ。もちろん夢も希望も持つことすらできない」

勇太は、そうなりかけてしまいそうだった以前の自分を思いだした。

「残念ながら、多くの若者がこの魔法の原石に気づかずに、ただの石ころにしてしまって苦しんでいる。そしてワーキングプアや引きこもりになってしまっている」

畳みかけるように、一ノ瀬は言った。

「今までの勇太のようにな」

ここまで聞くと、自分の中で押さえこらえていたものが、一気に込み上げてきた。そしてつらい日々が走馬燈のようにフラッシュバックしてきた。

「・・・」沈黙が続く。

「おい、聞いてるか?」

「・・・あっ、はい」

「実はな、俺も若い頃、そのことに気づかず、勇太と同じように苦しんだんだ」

「ええっ、先生もそうだったんですか?」

「そうだよ。自分が身を持って体験したからこそ、若い連中にこの魔法の原石の存在に気づいてもらいたいんだ。そして人生を最高に素晴らしいものにしてもらいたいと願っている。だからこういうことを始めたんだ。俺の二の舞を演じて欲しくないからな」

その言葉を聞いて、強い共感を覚えた。

自分も将来、一ノ瀬みたいになりたいと思った。

「魔法の原石の存在に気づかないと、どういうことが起きるかわかるか?」

「う~ん、そうですね。うまく言えません」

「他人を妬んだり、羨ましがったりするんだ」

「妬んだり、羨ましがったり・・・」

勇太は今までの自分を思いだしていた。そこには、うまく行かないと社会のせいにしたり、

親のせいにしていた過去の自分がいた。

「その上、劣等感を持ってしまい、自分を嫌になってしまって、自分を傷つけたりもすることある」

勇太は自分が危うくそうなりかけたことを思いだし、ぞっとした。

「あるいは被害者意識の固まりになって、世間を敵に回すようになったりする」

「そうかも知れません・・・」

勇太はニュースで流れる、すさんだ同年代の若者で、無差別に凶行を及ぼす犯罪者になった人達に思いをよせた。

「挙げ句の果て、自分を生み、育ててくれた両親ですら恨んだりする。その結果、自分にとって大切な人たちも去って行ってしまうんだ」

「大切な人が去っていく・・・」

「綾・・・」どうしてだろう、勇太はとっさに綾のことが脳裏に浮かんだ。

「俺も、親父をずっと憎んでいてな~」

「お父さんをですか?」

「うん、親父は飲んだくれで、飲むとお袋をいつも『なぐる、ける』をするんだ。そんな親父を見ると、大きくなったらぶっ殺してやりたいと、思ったくらいだ」

「先生にもそんなことがあったんですか・・・」

「そんな親父にじっと耐えているおふくろもふがいなくて、許せなくてな~」

「・・・」勇太は絶句して何も言えない。

「そんな家庭環境だから、中学ぐらいからぐれてしまってさ。学校なんかそっちのけさ。警察にもたびたびお世話になるくらいワルになってしまってさ~。先生方にも随分迷惑かけたよ」

勇太は、一ノ瀬の話をただひたすら聞いている。

「とうとう家を飛び出してしまって、行き着くところは、社会の鼻つまみ者さ。落ちるところまで落ちたよ。ノイローゼにもなったよな、前にも言ったけど」

「で、どうされたのですか?」

「そこで、例のおっさんに出会ったんだ」

「なるほど、そうだったんですか。そして『魔法の原石が輝く5ヶ条』を教えてもらったんですね」

「その通り!」

「なあ、自分の中に眠っている『魔法の原石』をダイヤモンドみたいにピカピカに輝かせることができれば、自分の願い通りの楽しい人生がやってくるんだぞ」

「なんかそんな気がします」

「俺も挫折して、初めていろんなことに気づいたよ。そんな時、この『魔法の原石が輝く5ヶ条』を素直に実践し始めたんだ。そうしたらさ、不思議なことにいろんなことがうまく行き始めたんだ。だから、スッテンテンのところからスタートして、こんなにいくつも会社を経営できるまでにもなれたんだ」

「何だか、私も先生のようになれそうですね」

「そうだ。その意気だ」

「もちろん俺も、親孝行な人間に変わったよ。両親とももういないが、その点においては、悔いはないほど親孝行させてもらったな」

「親孝行ですか?」考えたこともなかった勇太だった。

そして瞬間、「俺もどこかで親父を嫌っていたなあ」と思い出した。

「俺の師匠がよく言ってたよ。『強く生きろ!たくましく生きろ!しかし人の立場もわかる

優しい人間になれ!』と」

「人の立場もわかる優しい人間ですか」

一瞬、父や母の気持ちを本当に理解していたのかなと思った。

「心をきれいにして、『魔法の原石』が輝き出すと、そんな人間になれるんだから、人間って本当に素晴らしい存在なんだぞ!誰一人、無価値な存在はいないんだ。みんなかけがえのない存在なんだ」

「かけがえのない存在・・・夢の中の母親と同じ言葉だ!」

勇太の心にその言葉がズシンと響いた。

「勇太、勇太はどうしてこの世に生まれて来たか、わかるかね」

「・・・・・・」

「よ~く考えてごらん」

「うう~ん・・・」

「愛を形にするためだよ」

「ええっ」

驚いた。さっき電車の中でまどろんでいた時、どこからともなく聞こえて来た言葉を、一ノ瀬が口にしているではないか?

「人生は、愛を形にすることである」

「人生は、愛を形にすることである」

「人生は、愛を形にすることである」

勇太の頭の中にさっき夢の中で聞こえた声がこだました。

勇太は、バリバリの実業家である一ノ瀬の口から、愛という言葉が飛び出すとは予想もしなかった。

「勇太、さっきおふくろさんのお腹の中にいた時のことを思い出したって言っただろ?」

「はい」

「それを『胎内記憶』って言うらしいんだ。2、3歳の子供達は、胎内の記憶を鮮明に持っているらしいんだ。ただ、大人になるにつれて、現実に振り回され、すっかりその記憶をなくしてしまうんだ」

「そうなんですか?」

「それだけでなく、その時持っていた至福感、幸福感も、全て忘れてしまうんだ」

「至福感、幸福感も・・・」

「それはな、受験だ。競争だと生きていくうちに、頼るべきものは、学歴や資格、地位や肩書き、お金や権力などと思い込むようになり、だんだん魔法の原石が輝きを失ってくるんだ」

「『魔法の原石』が輝きを失う・・・」

「つまり、だんだん心が愛からほど遠くなるっていうことだ。愛を感じなくなるんだ」

「愛からほど遠くなる。愛を感じなくなる・・・」

勇太は一ノ瀬の言葉を繰り返した。

「心がピュアになると、人間は一人で生きているんではなく、全てとつながって愛され生かされているということを実感するんだ」

「生かされているという実感か・・・」

勇太は、事業家という夢に向かって生きている今の自分は毎日が楽しくてしょうがない。

以前に比べてはっきりとした目標だってある。

まさに生かされているという感覚だと実感していた。

「われわれは祝福され、愛に包まれて、この世に誕生したんだ。だからわれわれの使命は、その愛を世の中にお返ししていくこと、愛を形にして行くことなんだ!」

「人生は、愛を形にすることである」

この言葉が、また鮮烈に頭をよぎった。

「そのためには、常に人に喜んでもらうこと・・・実はそれが最高の喜びでもあるんだ」

「常に人に喜んでもらうことが最高の喜び・・・確かにそうです!」

勇太は、洗剤を買ってくれた人達の喜んでいる顔を思い出していた。

「そのためには、常に愛を感じ、幸福感にあふれていること、これが大切なんだ。幸福感にあふれていると、おのずと成功するようになっている。成功するから幸福になれるんではない、幸福でいるから成功が転がり込んでくるんだ」

一ノ瀬の力強い言葉を聞く度に、勇太の心が震えた。

心の奥底が、まるで恋をした時のようきゅんとに締め付けられるような感じがした。

「どんな時も幸福感で満ちあふれていると、苦労しなくても頑張らなくても、自分の中にある『魔法の原石』が、キラキラ輝き始めるんだ。これが一番大切なことなんだ」

そう言えば、最初に一ノ瀬の事務所を訪ねた時、一ノ瀬が言った言葉を思い出した。

「・・・あの時の最悪の状態が、俺の最高の財産になっている。あのどん底のおかげで、とても大切なことに気づかされたからね」

「そうなんだ。どん底の時に、一番大切なことを気づかされるんだな」と勇太は思った。

そう思ったら、人生は何て素晴らしいんだろうと思った。

自分は今、生きてきたことに心から感謝している。同時に今まで自分の周りにいてくれた人達にも感謝の気持ちが自然とこみ上げてきた。親父、お袋・・・。

すると、勇太の頭の中にあの夢の声が聞こえてきた。

「本当ね。私たちにとってかけがえの存在になるわ。きっと」

「そうだね。きっと僕らにとってかけがえのない愛の結晶になるね」

「かけがえのない存在・・・かけがえのない存在・・・私たちの大切な赤ちゃん」

その瞬間、勇太はこみ上げてきて溢れそうな涙を必死でこらえた。

そんな勇太の姿を見て一ノ瀬も目頭を熱くして言った。

「もっと、人を喜ばせて、自分の心も、もっと喜ばせろ!そして、どんなことにも敏感に感動することだ。感動し、感謝しまくることだ」

「はい!わかりました!」

勇太はなんだか心がワクワクしてきた。

以前の自分ならこんな気持ちにはきっとなれなかっただろう。

素直に感動したい!感謝しよう!などときっと思えなかったに違いない。

だが、今の勇太は違う。

一ノ瀬や多くの人達の感動に関わることのできた勇太の心には大きな気づきが芽生えていたのだった。

一ノ瀬の事務所を後にしてすぐしたくなったことがある。

父親との仲直りだ。

「どう、きっかけをつくるかだな?」そう、勇太はつぶやいた。

「もちろんお袋もだ。そして家族の絆を取り戻すんだ」

暖かい家庭・・・勇太は、子供の頃を思い出していた。

 

親子

 

今日は、創業の記念日。

法人として、株式会社としてスタートした日である。

一ノ瀬に出会って2年ほど経っている。

その創業を祝ってくれて、一ノ瀬が新宿西口のミルトンホテルで、家族水入らずの食事会をプレゼントしてくれた。

両親、そして弟と妹とその家族だ。何と今では家族全員が、勇太の扱っている洗剤を使っている。それだけではなく、人にも紹介してくれている。ありがたいことだ。

小さな子供達もいたので、和気藹々(あいあい)とにぎやかな時間だった。

夜の9時には、食事会が引けた。弟の英二と妹の明美家族は、早々に帰って行った。

母親の明子は、終始にこにこして嬉しそうだった。でも「いつ、お嫁さんをもらうの?」と、それだけは釘を刺された。

父親の勇吉は、相変わらずぶっきらぼうだった。以前のように、けんかはしなくなっていたが、今なおまだギクシャクしている感はある。

勇太は、その両親を一泊、スイートルームに招待した。

「親父との仲直りだ」そう思って相当の歳月が経ってしまっている。

母親は、部屋で早く休みたい。

というので、父親を最上階にあるラウンジに連れだした。

「親父とこうやって飲んだこともなかったな」

なんか、実の父親でありながら、心の距離を感じている。

一ノ瀬とは、親子のように話せるのに・・・。

カウンター席に並んで座った。ジャズの生演奏が、渋い大人のムードを醸し出している。

夜景がとてもきれいだ。

「ソルティドッグ、一つ」とバーテンに注文した。

「はい」

「何にする?」勇太は訪ねた。

「同じでいい」

きっとこういうところは、あまり来たことがないんだろう、勇太に合わせたようだ。

カシャカシャカシ・・・。カクテルをつくっている間、じっと沈黙が続いた。

どこから話していいのか、2人ともぎこちない。

「はい、どうぞ!」

2人の前に並べられたグラス。

「まずは乾杯!」

「・・・」

無言で乾杯の仕草をする勇吉。

カチーン、とても澄み切った音がした。

その音に後押しされるように、勇太が切り出した。

「俺、お父さんのこと、ずっとずっと敬遠してた。そして馬鹿にしてた。まじめくさって、石頭で、融通が利かなくて、口うるさくて・・・」

「・・・」

じっと前を向いたまま、目を合わせない勇吉。

「特に、大学で留年を重ねて遊びほうけていた時、実家に帰ったら説教されて『親子の縁を切るぞ!』と言われて、どなられて・・・」

「そんなこともあったな」ぽつりと言った。

「・・・お父さん。いろいろ心配かけてごめんな」

「・・・」

勇吉をそっと見ると、そのメガネの奥にキラリと光るものを見た。

「小さい頃、よく遊んでくれたね。相撲を取ったり野球をしたり・・・」

「そうだな」

「おんぶしてもらった時のお父さんの背中は、なんかとても安心できる場所で・・・」

「勇太」

急に、振り向いて勇太の目を直視した勇吉。

「お前が生まれた時、本当にワシは嬉しかった。心から喜んだ。だって初めて父親になれたんだからな」

「そう・・・」ぐっと来た。そしてその時、はっきり思い出した。

数年前の暑い残暑の昼下がり、見ていた夢の内容を。

「そうだったんだ。あの時の夢は、俺がお袋のおなかの中にいる時の記憶だったんだ!」

勇太は、両親が自分の誕生を心待ちしていた時の状況を、思い出したのだ。

「今でも、お前はワシの大事な息子だ!」

その言葉を聞いた瞬間、勇太は激しく込み上げてくるものを感じた。しかし、押さえた。

そしてどんな時も、見守ってくれていた父親の愛をいっぱい感じることができた。

しばらくは、勇太の子供の頃の話に、花が咲いた。男同士の会話であるから、それは地味ではあったが。

「悪いけど、ワシもう眠たいから寝る!」そう言って立ち上がった勇吉。

「そうそう。これお前に渡したいものがある。後で部屋に帰って見ておけ」

一通の封筒を差し出し、行ってしまった。

何かゴロゴロしたものも入っている。でもしっかりのりづけされている。

勇太は、自分の部屋もリザーブしていた。

部屋に戻ると、さっき勇吉から渡された封筒をあけた。

「いったい、何だろう?」

開けると、何と勇太名義の通帳と印鑑、そしてキャッシュカードだった」

何と、300万円も残高がある。中には、メモで、「運転資金にでも使え。英二と明美には、

結婚資金として公平に渡している。だから心配するな。カードの暗証番号は母さんから聞いてくれ。父より」となっていた。

大粒の涙があふれて来た。そこに父親の大きな愛を感じた。

「ワーキングプアの状態の時にこれをくれたら、もっと俺はダメになっていただろうな。さすが親父だ」

これがほんとの父性愛だと感じ入った。

「お袋もこの貯金のことは知っていて、もっとつらかったに違いない」

勇太が貧しい時、すぐにでも息子を助けたい母性愛を押さえていた母親の慈愛を、同時に深く感じたのである。

「こんなだらしない自分になったのは、母の過干渉、過保護のせいだ」と思い込んでいた自分が、とても恥ずかしくなった。自分で自分の人生をつくっていたのである。

ただ両親は、その深い愛で、見守ってくれていただけなのだ。

「この親父とお袋でよかった。ほんとに生んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう!」

心の底から、汲んでも、汲んでもつきない感謝の気持ちが湧いてきた。

感動で心が震え、誰もいないホテルの部屋で大泣きした。

「かけがえのない存在・・・かけがえのない存在・・・私たちの大切な赤ちゃん」

またしても、いつか夢の中で聞こえたこの声がはっきりと聞き取れた。

この金は、親父とお袋のためにとって置こう。こう決心するたくましく変身した勇太の姿がそこにはあった。

 

赤い糸

 

あれから3年経った。

「魔法の原石が輝く5ヶ条」も、勇太の第2の天性と言っていいほど、血となり、肉となり、習慣化されていた。

特に、勇太の笑顔は、磨きがかかってお客さんにも大好評である。

事業も軌道に乗り、池袋の西口から歩いて10分足らずの所に、勇太はオフィスも借りて会社を経営している。売上げも順調だ。

お客さんとは、心がつながっているから、景気に関係がない。

次々と紹介がもらえるのは、嬉しい。この営業スタイルは、永遠に続ける決意でいる。

何しろ、最初の洗剤の販売の成功体験が、感動と共に体に染みついている。

どうやら事業のコツもつかんだようだ。社員も今では、5人も雇っている。そして社員からも慕われている。社内には、常に笑い声が絶えない。

また、勇太の会話にもユーモアがぽんぽん飛び出す。たまには、おやじギャグとして一同凍り付く場面もあるが、それも愛嬌だ。

今年から、インターネットによるダイレクトショッピングも立ち上げた。出だしは上々だ。

数年前の勇太とは思えないほど、精悍な顔つきになり、自信にみなぎっている。

「やはり男には、生活力がなくては」

これが勇太の最近の口癖だ。

今年から、福島の実家へ仕送りも始めた。老いた両親は喜んで、近所中に「自慢の息子」と言いふらしているらしい。先日、妹から電話で聞いた。

将来は、両親を引き取るかどうかはまだ決めていない。ただ、思う存分親孝行をするつもりだ。悔いがないように。

池袋まで電車で10分のところにある和光市に、自宅マンションを借りた。歩いて7、8分の至便なところだ。

結婚して、子供が2、3人いても十分な広さだ。特に、南に面した広いベランダが気に入っている。

マンションは10階建ての8階だから見晴らしもかなりいい。遠くの方には、新宿の高層ビル街も見える。

一ノ瀬と出会ったところだ。「足を向けて寝られないな」心の中でそう思っている。

最近、綾のことをよく思い出す。

ニッコリとやさしく微笑んでいる姿が、きのうも夢に出てきた。

しかし別れてから3年間は、一度も連絡は取っていない。

一度、新しく契約し直した携帯番号を書いた年賀状を出したが、差し障りのない内容の返信があったきりだ。

何と言っても、彼女といると一番心が安らぐ。

人生の伴侶は、やはり綾だな。こう思う日々である。と同時に、もう、嫁に行っているかも知れないとも思う。

「よし、今晩電話してみよう」そう決意した。

池袋には、最近一人暮らしの人間でも生活しやすいような、手軽なレストランが多い。

レストランというか食堂、あるいは定食屋だ。

仕事の後、今日もその一番店である中戸屋に行った。できるだけ栄養のバランスを考えて、

野菜の多いメニューを頼んだ。脂っこいものもできるだけ控えている。

自宅のマンションに帰ったのが、8時過ぎ。

やはり、きちんとしたマンションはいい。お風呂も大きく、ゆっくりくつろげる。

4畳半、風呂なし、共同トイレのアパートで過ごしていたワーキングプアの日々が、何だか遠い昔に感じる。

湯上がり、さっぱりしたところで綾に電話をかけることにした。

「果たして、まだ携帯の番号は同じだろうか?」

少し不安になった。

「なんだかドキドキするなあ」そう呟いて、番号をプュシッした。

しばらく反応しない。ツー、ツー、ツー・・・。

「なんだ、話し中か。どうやら番号は同じだな」

しばらくしてリダイヤルをした。ツー、ツー、ツー・・・。

「またか、一体誰と話しているんだ」と言って、電話を切った。

3回目のトライである。プル、プル、プル~。ようやくつながった。

「もしもし」

「もしもし、あ、勇太?」

声だけで綾はわかったようだ。とても嬉しい。

「今ね、あなたに電話したのよ。そうしたら、2回とも電話中で・・・」

「ええっ、またシンクロニシティだ!」と、勇太は感動に震えた。

魔法の原石に気づいてからは、シンクロニシティをよく体験する。

「嬉しいな、綾!実は、俺がお前に電話してたんだ。2回とも」

「え~っ、本当?不思議ねえ、テレパシーが通じたのかしら」

「ほんとだね。で、俺に何の用?」

「そんなのずるい!女性から先に言わせるなんて」

「わかった、わかった。ごめん、ごめん」

「で、あなたは何の用?」

「綾、突然で申し訳ないけど、う~ん。俺と結婚してくれないか!もし今も一人なら・・・」

「えっ」

明らかに戸惑っている。

沈黙。

「ねえ、どうなんだ?」

明らかに、綾のすすり泣きが聞こえる。

そして涙声で答えた。

「どうして、こんな大事なことを電話で言うのよ!」

勇太にはわかった。

彼女の涙が嬉し涙であることを。

「俺には、お前しかいない。絶対幸せにするから!」

その言葉には、以前の勇太にはなかった力強さとたくましさがあった。

「・・・うん。嬉しい!」

「ありがとう!」

「愛してる!」

「・・・うん」

「で、綾の用事は?」

「もういいわ。ありがとう」

涙声で、はっきり聞こえなかったが、勇太には、綾の愛をしっかりと感じた。

もう勇太の心は、幸せで張り裂けんばかりであった。

空には、満天の星が2人の幸せを祝福しているかのように輝いていた。

 

『魔法の原石』  見山 敏

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